5「さわのはな」の作付けはなぜ少なくなったか

(1)「さわのはな」の適地

 「さわのはな」は、「び系41号」の系統名で1956年から4年間に県内73地点の試験が行われ、標準品種(農林41号)に比べた収量比は103%であつた。標準品種より多収の事例の平均収量比は107%、低収の事例の平均収量比は95%で、多収例と低収例の差は比較的小さい。

 また、漂準品種より多収の事例は45地点で、低収の場合の25地点より圧倒的に多く、安定した収量性があることから、中山間と平坦地力中庸の地帯が適地とされた。ちなみに、図3から最北・置腸両地帯の収量が安定し、村山・庄内両地帯は収量差が大きく、「さわのはな」の作柄は必ずしも安定していない。

 現に、「さわのはな」の作付けの動きをみると、最北と置賜が適地で作付率は80%(残り20%は村山と庄内)を超えている。

(2)作付けの変遷

 「さわのはな」は奨励品種となってから、1965年までほぼ順調に作付けは広がり1万ヘク夕ールを超えた。だが、1967年に始まったコメ増産運動(山形県60万トン米つくり運動)から強稈多収品種「でわみのり」などの作付けが急増し、1969年には「さわのはな」は6千ヘクタールほどに減少した。

 一方、コメ余り時代となった1969年の自主流通米制度から、「さわのはな」は自主流通米対策の戦略品種として、食味がかわれ本県の銘柄米に指定された。そこで、1971年には1万5千ヘクタール、まで作付けが復活するなど、時代の急激な変化の中で、「さわのはな」は本県独自の銘柄品種として、いかに作付けの定着を図るかが課題となった(図4)

 だが、品種の知名度の違いから「さわのはな」の市場価格はササニシキに水を開けられ(1981〜89年平均60キロ当たり1、743円差)、その上市場収引量の差は大きく、「さわのはな」の作付けの減少を加速する要因となった。でも、1978年以降は横這いを続け、「さわのはな」に代わる「はえぬき・どまんなか」が普及奨励された現在も、試作が絶えないのは「さわのはな」の「本物の味」ヘの強い愛着があつてのことではないでしょうか。

 品種の寿命は10年ほどであるのに比べ「さわのはな」は驚くほど長い寿命で、その人気には計り知れないものを感じる。

(3)「さわのはな」の回顧と期侍

 以前県内でも,「いもち病や倒伏に弱い」コシヒカリは「良品質・良食味」で優れていても、話題にすらならなかった。それが、一気に作付けが拡大したのは,奨励品種として登録されてから20年を経た1975年以隆各地で栽培法が確立してからである。今、県内ではコシヒカリの試作が各地にみられ、以前には想像もつかない時代の変化を改めて感しる。

 「さわのはな」は、作りごわい(注25)、機械化にそぐわない、収量が大穫れしないと敬遠されてきたが、この弱点をカバーする栽培法確立の研究が、コシヒカリに比ベ間題にならないほど少ないことが悔やまれてならない。量より品質が重視され、環境にやさしいコメづくりが求められている今は、頑丈ではないが安定した作柄と夏場に強い味をもつ「さわのはな」にとって、「水を得た魚」同然の思いがする。

 「さわのはな」に愛着をもたれ、また、自家用の飯米として作られている方々の「さわのはを」の作り方のよりよい工夫とその成果を何よりも期侍したい。

☆ 目  次

   0  扉のページ

   1   はじめに

   2  「さわのはな」の誕生まで

   3  「さわのはな」の美味しさは時代の要請から生まれたのか

   4  「さわのはな」の魅力

   5  「さわのはな」の作付けはなぜ少なくなったか (現在のページ)

   6  「さわのはな」は今の時代に通用するか

   7   むすび


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